SJ Short Subjekt (スキージャーナル2002.3月号)
永眠−Ewige Ruhe−
2001年12月28日午後、ベルント・グレーバーは自宅があるシュルンスのとなり村の山の頂上をひとりで目指していた。その山は3日前にも登ったばかりだった。彼の身につけていた脈拍計の腕時計は13:15を指している(おそらくその時間に頂上にたどりつき、時計を止めたと思われる。クライミングが大好きなベルンとだが、もちろん今回の目的は山頂からの代滑走。昨晩降ったばかりの粉雪は約20センチ。ベルントにしてみればちょっと物足りないくらいのシチュエーションと言えた。

簡単なツアーで、雪崩危険度の高い日でも入り込むスキーヤーが絶えなかったコース。さらに3日前も同じ斜面を滑ったという意識が彼のどこかに潜んでいたのかもしれない。事故報告書によれば、前日少しの降雪があり、その後強く吹いた風が事故のあった斜面に雪を運び、雪崩に直接つながってしまったのではないかとされている。

バックカントリー・スキーヤーならば少なくとも滑る前に雪の状態をチェックするのが常識であろう。しかしベルントはいきなりショートターンで斜面に飛び込んでいった。そして、彼のシュプールは5ターンほどしたところで忽然と消える。

斜度は30度以上。下に滑るに従ってだんだん幅が狭くなっていった。崩れた雪はベルントめがけて集中し、必死に逃げる彼を恐ろしいスピードで追いかけ、そして飲み込んでいった。

夕方、雪崩が起きた地点から350メートル下でベルントは発見された。外傷は唇の横を少し切っただけでほとんどなく、彼は立った状態で雪に埋もれ息絶えていた。頭は雪上までわずか80センチ。あくまで推測だが、もし雪崩れが起きた地点ですぐに転倒していたとしたら、脱出の可能性は高かったのかもしれない。高度なスキーテクニックと優れた身体能力が、逆に彼の命を奪ってしまったと考えることもできる。山がふたたび静粛に包まれたのは、頂上でベルントが止めてから約15分後のことだった。

いつまでも家に戻らないベルントのことを心配した彼の奥さんから連絡を受けた先輩のパウル・ロマーニャが、麓の駐車場に車が止められたままになっていることを発見し、捜索のヘリを要請したとき、時は素手にすでに17:00を過ぎていた。ヘリの捜索によって現場での発見は早かったが、彼の命を救うことは叶わなかった。

12月31日午前10時、シュルンスにある教会の鐘が鳴り、ミサが始まった。神父さんのよく通った声を聞きながら、底冷えのする教会の席で彼のことを思いだしていた。

初めて彼に会ったのは16、17年前のことだったと思う。ホピヒラー教授に紹介されてブンデス・スポーツ・アカデミーの前で会った少年は、髪がボサボサでスキーヤーというより牧童というイメージだった。着ていたのは先輩のハンスが前年日本で提供されたものと思われるD社の青と黄色のピステ。それもすっかりヨレヨレで泥だらけになってしまっていた。目はとても澄んでいて鋭かった。教授が「こいつはまだ荒削りだけど、レーサーっぽいすごく切れる滑りをするんだ」というと、ベルントは恥ずかしそうに下を向いた。

数年後、SAJアニバーサリー網張大会に招かれたオーストリア代表団の一員として初来日。最終日に東京のホテルでパーティが終わり六本木のディスコへデモ全員繰り出したが、ひとりだけ夜が明けるまで帰ってこなかったのが”新人”のベルントだった。「ニッキー(外国人の間での私の愛称)参ったよ、磁石を忘れちゃってさ、仕方ないから夜が明けるのを待ってあの高い塔(東京タワーのこと)を目印にしてなんとかホテルに戻ってきたけど、チロルの山と違って建物が邪魔で時間がかかっちゃってさ!」。そして同じ日の昼には、満開の桜を橋の脇から撮ろうとしてキャップを落とし、拾おうとお堀に飛び込んだ。しかし水深は数10センチ。真っ白な大理石のホテルのロビーに全身泥まみれで戻ってきたのだった。初め会ったときから常に”ワイルド”だったベルント。野沢温泉での国際技術選が終わった直後、奥さんが早産っぽいと慌てて帰ったベルンと、長男のティムが生まれると誇らしげにメールを送ってきたベルント、少しは親父らしくなったんだなと思っていたのに・・・・。

式が終わると、リッチーやエゴンやトーマスといったブンデスの仲間たちが棺を担いで教会の祭壇から花道を通り、外へ出た。先頭で木製の十字架を持ったパスカルはぼろぼろ泣いていた。
そのメンバーはサンアントン、野沢温泉のインタースキーで最高の演技を見せてくれた”ドリームチーム”だった。12月29日から来日してしまっていたグッキーと棺の中で眠っているベルントを除いては。

外はまだ雪が降っていた。棺は車に乗せられ少し離れたところにある墓地へ向かい、われわれは”デモチーム”を先頭にその後に続いた。沿道ではシュルンスの村の人たちが足を止めて見守っていた。墓地では参列者全員が棺に水をかけて祈った。最後に前国家検定スキー教師養成教官のチーフでもあり、オーストリア・マウントブーラースキースクール校長としてもベルントの前任者であった前述のパウルが別れの挨拶をして棺に土がかけられた。われわれも花を供えて合掌、墓地を後にした。

その後久しぶりに会ったデモたちに誘われ、村はずれのレストランでの追悼昼食会に出席させてもらった。そこにいたのは親族以外のほとんどがブンデスの卒業生で、今はオーストリア各地のスキースクールで校長や主任教師をしているような人たちばかりだった。大晦日でスキースクールが一番忙しい日のはずなのに、たくさんの仲間がベルントを偲ぶために集まっていた。そしていつもは陽気なエゴンがお開きのころにポツっと言った。「みんなひさしぶりに会えてブンデスの同窓会みたいだけど、こんな形で会いたくはなかったよな」。それを聞いて未亡人のビルギットがちょっぴり涙ぐんで息子のティムを ちらっと見る。何も知らない”ベルントジュニア”は大きな大きなお父さんそっくりの澄んだブルーグレーの目で、たくさん集まった親父の親友たちをものめずらしそうに見つめていた。

大好きだった雪山のなかで、大好きだったスキーをしたまま亡くなったのだから、ベルントはシアワセだったのかもしれない。でもビルギットやティムにとって、そして僕たちにとってもやっぱり早すぎたよ!

Ewige Ruhe,Bernd

田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主