知のフィールドワーク 41 (スキージャーナル2001.12月号)
ジャンピング ジャック フラッシュ in 白馬
9月9日、FIS白馬ジャンプ大会も無事終了。サマーグランプリの最終戦ということと、久々に日本のH選手が勝ったということもあり、恒例となった白馬T館でのアスリートパーティは、予想通りおおいに盛り上がった。あくまでオフィシャルなパーティではなく、白馬組織委員会の配慮で、ほとんどただに近い会費での、選手たちによる、選手たちのための”飲み放題パーティ”である」。

この夜も缶ビールがかなり積み上げられ、ワインのボトルが10本以上空いた頃、各国のジャッジマン(各国飛型審判員)のテーブルで”ミスター・トゥエンティ”、つまり”満点オヤジ”という声が上がった。いったいどうしたのかと聞いてみると、この日のジャッジマンはオーストリア、ドイツ、スロヴェニア、韓国、日本の5名だったが、その中のドイツのジャッジマンが、最後の最後に飛んだH選手に20点満点をつけたことが話題に上がっていたのだった。

「ニッキーもジャンプの飛型審判員に定年制があることは知っているだろう?実はこの大会が、こいつのジャッジマンとして最後の大会だったのサ。だから、その最後の最後に飛んだHに満点を出したんだ。」「見てわかっただろ。Hの1本目に満点を出すならまだわかるけど、2本目に20点というのは、実は彼にとっての”アニバーサリー”だったんだヨ。」

そうオーストリアとスロヴェニアのジャッジマンが説明してくれた。すると、当人のドイツのステーガー氏は、
「オレのジャッジマンとしての最後の仕事が、この白馬のオリンピックシャンツェで、しかも、”あの”Hのジャンプだったんだ。アイツは、他の選手とまったく違う高〜いジャンプをするから気を付けていないと、飛び出したあと一瞬見失うことがあるんだ。Fのジャンプも、きれいで、鋭くて好きだけど、Hの奇想天外な”サムライ”ジャンプも、とってもスキなんだ。だから、あの台で、あの選手の点を最後に出せたことを誇りに思って満点をつけたんだ!」とちょっぴり目をウルウルさせて語ってくれた。
「おい、ミスター・トゥエンティ、あっちのテーブルに”恩人”のHがいるから。お礼をいってこいヨ!」。 そう他のジャッジマンたちに言われて、ステーガー氏は、すでに祝勝会モードに入っていたジャパンチームぼテーブルに向かった。そして、H選手にいきなり握手を求めて、ひとこと”ダンケ”と言うと、、一瞬なんのことだかわからずにキョトンとしていたH選手は、すぐにいつもの”Hスマイル”に戻って、ステーガー氏の肩を叩いた。それは、その日勝った選手をジャッジマンが讃えるのではなく、最長老選手が引退するジャッジマンの60歳の誕生日を祝っているシーンであった。

9月10日、台風が接近するなか、まだ早朝の暗いうちに60名の外国人選手、役員を乗せた2台のバスが白馬を発った。昨夜からのアスリートパーティは、予想はしていたものの出発まで続くという”最長不倒距離”を記録して、もはやアスリートというより、寝不足と酔っぱらいの外国人の団体を成田空港まで引率することになってしまった。ところが6時過ぎに長野駅に着くと”長野新幹線運休”の知らせ!もちろん松本経由の在来線では、ヨーロッパ行きの13時のフライトタイムに間に合わない。そこで台風のように急遽”進路”を変えて、越後湯沢にバスを走らせた。この”ひらめき”はアルペンの世界選手権、インタースキー、オリンピック、そして数々のワールドカップで外国人軍団を連れ回しているなかで培われた、困ったときの瞬時の対応能力によるものなのである。

ラストチャンスとして、何時に湯沢に着いたらギリギリで飛行機に間に合うか伝えておいたレースディレクターのワルター・ホーファーが、「ニッキー!このバス、制限速度を守っているじゃないか。もっと早く走るように運転手に言えヨ」とイラついて怒鳴る一方、相変わらずマイペースのゴルディーは、これまた相変わらずの眠そうな声で「ニッキー!心配しなくても大丈夫だヨ。オレたち、飛行機の出発に間に合わなかったら、自分たちで飛んで帰りゃいいさ。オレたち、ジャンパーだぜ!」と、こういう事態の中では、けっこうなごませてくれることを独り言のように言っていた。

奇跡的に湯沢では新潟からの湯沢〜東京間ノンストップのMAXに間に合い、自由席に乱入。そして東京駅では、新幹線のホームから成田エクスプレスまで、(不眠、二日酔いの)世界のトップアスリートと関係者が、8分の乗り継ぎ時間内で全速力で駆け抜いて、ふたたび満席状態の車内に乱入。成田空港までは立ち席移動となったが、これほど多くの外国人の汗とアルコールのニオイのする成田エクスプレスには、今まで乗ったことがなかった。台風に負けず、あらゆる難関を突破した”大集団筋肉番付”状態の一行は、11時に成田空港着。なんと出発2時間前という団体の通常の集合時間どおりという”ミラクル”を成し遂げたのだった。

チェックインを終わった選手やコーチ、役員たちと、最後に記憶には残っても、記録には残らない”アスリートパーティ”や、”奇跡の大移動”の思い出にひたりながら、「また、来年1月のワールドカップで日本に来たら会おうナ!」と言って、ひとりひとり握手して別れたことがそれまでの数日、数時間でどっとたまっていた疲れを、癒してくれたのだった。

田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主