| 知のフィールドワーク 26 (スキージャーナル1997.11月号) |
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| フランツ・ラウタ−を訪ねて |
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| 先日、名古屋の人たちのスキーツアーでオーストリアのキッツシュタインホルン・スキー場へいった。今夏のヨーロッパは、6月、7月と天候不順が続き、2000メートル以上の氷河スキー場では真夏の降雪があったため、例年より雪の量が多かった。最初の2日間は曇りや霧だったが、その後は快晴!!午前中スキー、午後水泳(プール)、そして夕食後はテニスという”スポーツ漬け”の健康的な生活が続いた。そして途中の2日間、あのリッチ−・ベルガ−が来てくれた。雪上ではカービングスキーの指導をミッチリやってくれ、急斜面では、得意のショートターンをタップリ見(魅)せてくれた。プールや指導員の資格も持っているというテニスにも付き合ってくれて参加者は大満足。最後の夕食後のリッチーのテーブルでは、スキーウエアやTシャツとマジックを持ち込んでの”大サイン会”となった。金髪の青年にサインを求めて群がる日本人グループという光景を見ていた隣のテーブルのオバさんたちは「ベルガーとか言ってたけど、ゲルハルトじゃないみたいね。いったい誰なのかしら」と囁きあっていた。ヨーロッパで有名スキーヤーと言えばレーサーのこと。”オーストリア・トップデモ”というタイトルは日本でしか通用しないのである。 このツアーが終わってウィーンの空港で参加者を見送った後、仕事上頼みたいことがあって、オーストリア・トップデモの”元祖”的存在であるフランツ・ラウターを訪ねた。(実は6月頃に次女が「夏休みどこかにホームスティしたい」と言い出し、知っている限りのヨーロッパの知人を思い浮かべた結果、ふたりの娘がいるフランツのところが最適であると考えてお願いをしたという理由もあった)。 8月18日、ウイーンからチロリアン航空でインスブルッグへ飛んだ。仕事をひとつしてからレンタカーでオーバータウエルンのハインリッヒ・ベルクミューラーのところに立ち寄った後、フランツ・ラウターの住んでるバド・クラインキルヒハイムへ向かった。目的地までの道中、隣のシートに座っていた娘はそれまでの疲れのためかいよいよホームスティという緊張からか熟睡状態。インスブルッグから合流して私たち親子を目的地で降ろした後、今晩中にスキー連盟のクロスカントリーチームのアテンドでラムサウに入ることになっていたインスブルッグ大学のYさんに「フランツ・ラウターて知っているよね?」と聞くと、「ベルントやリッチーやマルティンは知っているけど、ラウターさんっていうのは名前しか知りません・・」という答が返ってきた。あの華麗でパワフルなスキーテクニックで日本のスキーヤーに絶賛されたフランツ・ラウターも、もはや新世代にとってっは”伝説の人”なのだ。 久しぶりに天気が崩れて小雨の中、薄暗くなりかけていた頃、車はバド・クラインキルヒハイムに着いた。ゴルフ場もできて多少様子が変わってしまった街を貫く一本道を、スピードを落として彼の家をなんとか探し当てた。家の前には久しぶりに再会する”伝説の人”フランツ・ラウターが今年50歳になったとは思えないいつもの笑顔で立っていた。 その晩、娘を残して2泊で帰る私とフランツは彼の10年以上におよぶ来日の思い出話しをたっぷりした。日本で知り合ったY社や私の会社の人たちの近況を知りたがり、Y社がスキーをつくらなくなってしまったことをとっても残念だと言った。夕食後、これから10日間ここに滞在する娘と私に家の中を案内してくれた。2階に上がっていく階段の壁には以前、フランツの日本での活躍を示す写真やポスターがたくさん飾ってあった。しかし、今は芸術方面の仕事がしたいと言っていた次女テレサのデッサンに代わっていた。”もうスキーとは縁のない生活をしているんだろうな”と思いながら、テレサの”芸術作品”を鑑賞した。2階の案内が終わると、フランツは「そうだ!地下室にニッキー(私の海外での愛称)に見せたいものがあるんだ」と言った。ッ今度は地下への階段を降りていくと、その壁には今まで2階への壁にあった写真やポスターがそっくり引っ越していた。さらに選手時代のゼッケンやアームバンドに加わり、そこは”フランツ・ラウター・ミニ・スキーギャラリー”となっていた。地下では洋服ダンスを開けると、その奥が秘密のサウナルームになっている自慢の部屋を見せてくれた(自宅にサウナを持っていることを申告すると、電気代の基本料金がかなりたかく設定されてしまうのでその対策なのだそうだ)。そして最後に「もうひとつの仕事場だヨ」と言ってチューンナップ・ルームを見せてくれた。驚いたことにそこにはフランツ・ラウターが日本で使用していたY社のスキー全機種がぎっしり並べられていた。そしてその横の洋服ダンスには、同じく彼が日本で着ていたウエアのほとんどがニューコレクションのようにズラッとかかっていた。 フランツ・ラウターのスキー人生の半分以上は日本だった。そして彼は”それ”を大切に大切に自宅の地下室に保存していたのだ。 2日後の早朝、クラーゲンフルトの空港では、これから10日間ラウター家で暮らす次女とフランツが私を見送ってくれた。最後にフランツに「うちの会社にY社の97/98のニュー・アンド・ラスト・モデルがあるから、今度来るとき持ってくるヨ!」と伝えた。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |