知のフィールドワーク 23 (スキージャーナル1997.6月号)
97アルペンスキーワールドカップ白馬・志賀高原大会サイドストーリー
今年の冬の出張は長かった。2月11日から3月24日まで、東京の事務所に出社できたのが2日間。2月11〜19日、スノーボードワールドカップ志賀高原大会。19〜20日、同じく雫石大会。20〜23日、オーストリアトップデモのスキーサミットで野沢温泉。24〜3月2日、アルペンスキー・ワールドカップ白馬大会。3〜5日、草津スキークラブ80周年記念オーストリアウィーク。5〜9日、アルペンスキー・ワールドカップ志賀高原大会。前述のように10、11日 と出社して12〜19日、SAJ教育本部より学校体育部会(インタースキーの三部会)の国際会議でフィンランドへ。20〜24日、第2回国際スキー技術選手権大会で野沢温泉…とにかくスノーボードに始まって競技スキーと基礎スキーのイベントや行事でスキー場からスキー場へと転々としていた。スキーのワールドカップでは、昨年同様、渉外コーディネーターとして選手、役員と運営関係者(宿泊、輸送、報道、式典)の仲介役となり大会運営を支えてきた(?)つもりである。

2月27日、女子ダウンヒル白馬大会の前夜、運営本部の仕事を終えて、宿に帰り、遅めの夕食をとっていた。するとその横をやはり他のチームより遅い食事をしていたイタリアの女子選手が、こういった大会では常識となっているバイキング形式の食事の”おかわり”をとって自分たちの席に戻ろうとしていた。最後に私の席の横を通ったダウンヒル・レーサーにしては細めの身体、黒髪でショートカット、鼻がちょっと上向きのイゾルデ・コストナーの大皿には超大盛のスパゲッティがもられていた。唖然とした表情をしてしまった私と目が合うと、ちょっとはずかしそうにニッコリ笑って急いで自分の席に戻っていた。

2月28日大会当日の朝、少し早めの朝食をとっていると、既に食事をしていたロシアの女子選手がやはり”おかわり”をして私の席の横を通っていった。このとき、最後に私の席の横を通ったのはロシアチームでもがっちりしていて均整のとれたか身体、栗色の髪をなびかせたワルワラ・ツェレンスカヤだった。彼女のパン皿には、他の料理とは不釣り合いなほど多い5、6コのロールパンが山盛になって乗っていた。このときも思わずびっくりした表情になってしまうと、彼女は”これはロシアの常識よ”といわんばかりの落ち着いた顔でやはりニッコリ笑って自分の席に戻っていった。

現代のスポーツでは大会直前に炭水化物を多めに摂取するのが望ましいと言われている。そして、当然トップアスリートである彼女たちも好みの差こそあれ、それを”実行”しているに違いないのかもれない(それとも女子ダウンヒル・レーサーは単なる大食いなのか)。ただこの大会の結果だけを見ると、スパゲッティよりもロールパンに軍配があがったことは間違いないようだ。

3月8日、男子ジャイアント・スラロームの大会後、記者会見を終えて、会場の外に出ると、たくさんのファンがサインを求めて、上位3選手のまわりを取り囲んだ。3位のアンドレアス・シーフェラーには”スキーで下まで降りて高天ヶ原に上がり、駐車場に行けば、バスを手配しておくよ!”と伝えると、すぐにスキーを履いてブッ飛んでいった。1、2位のスイス選手ふたりにも同じ指示をすると、優勝したミカエル・フォン・グリュニゲンが困ったような表情を見せた。「フリップ30で最後に滑って、その後すぐにTVのインタビュー、表彰式、そして記者会見。トレーニング用スキーと交換している時間がなかったんで、今持っているのは、本番で滑ったスキーなんだ。このスキーでコース以外のところを滑ることは絶対にできない。!」

昨年のオレゴン・スキーテストで、彼がどれだけ自分のマテリアルを大切にし、細心の注意を払っているかを見ていた私は、彼の眉間のシワとヒゲの動きから、このトップレーサーが単なるわがままから”滑走拒否”をしているのではないことはすぐにわかった。
「よし、そこからちょっと大変だけど、発哺の駐車場まで歩くぞ!」と言うと、2位になったパウル・アッコラーも「ミカエルひとりじゃかわいそうだからオレも付き合うよ」と言ってついてきた。その結果、突然ワールドカップ1、2位の”スキー場大行進”が始まった。「サインください!」というファンを振り切りながら、雪が解けてグシャグシャになったゲレンデを登っていった。何人かのスタッフが彼に「スキーを持ちましょうか?」といってくれたが、ミカエルは絶対に「頼むヨ!」とは言わないことはわかっていた。トップ・アスリートとはいえ、かなり息が上がってきたので「明日のスラロームにも出るんだし大丈夫かな」と思い始めた頃、コースの後片付けをしていた運営スタッフの一団に出会った。そこにはスノーモービルもあったが、キャタピラのついた荷物搬送車が1台あった。「これちょっと貸して下さい。」と言うと、「これから作業に使うんだけどなー。」と言われたので、思わず、「選手と作業どっちを優先するんですか!」と叫んでしまった。そこに大会の組織委員会事務局長も駆け付けてくれて、何とか運転手も確保できた。優勝したミカエル・フォン・グリュニゲンと準優勝のパウル・アッコラー、渉外通訳と私、そしてもちろん大切なスキーを乗せた”荷物車”は、何度もエンストしながら、人間が歩くより遅いスピードで発哺の駐車場へと向かった。その日一番速いスキーを見せてくれたグリュニゲンが、サインを求めてまだ追っかけてくるファンよりも遅い乗り物に乗っていたのだった。エンストすると「ツェルマットやサ−スフェーのスキー場にはたくさん走っているよ」と言っていたこのスイス人ふたりは、運転手にギアチェンジのこつをさかんに伝授していた。

それは、この大会のプログラムにもマニュアルにもまったく載っていなかった予定外の”優勝選手の凱旋パレード”だった。

田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主