知のフィールドワーク 21 (スキージャーナル1996.10月号)
マルティン・グガニックの決断
95年12月21日、マルティン・グガニック(以下G)と私(以下D)は成田空港から東京駅に向かう成田エクスプレスに乗っていた。
G:「今度の国際技術選はどんな大会になるの?」 
D:「初めての試みだし、外国人選手はあまり制約をつけずに、なるべくたくさんの選手が出場できるようにしたいと思っている」
G:「今まで技術選で前走は何回かやってきたし、ジャッジマンもやってみたいけど、ちょっとまだ早い気もする…。やっぱり自分の力にトライしてみるべきかな…」
D:「まだほとんどの選手が正式にエントリーしていないし、これから日本にずっといるんだから、いろんな人に相談してじっくり考えたほうがいいと思うよ」

このとき、マルティンの帰りの航空券の日付けはまだ2月末になっていた。
96年1月31日、マルティン・グガニックと私は表万座スキー場でひさしぶりに再会した。夜遅くまで国際技術選のジャッジに対する考え方を話し合った。翌日は雪まじりで風も強くマイナス10度以下のとても寒い日だった。”オーストリアスキー・イン・ジャパン”の講習をしていたマルティンは、受講生のことを考えて、30分〜1時間滑っては、レストランで暖をとるという変則的なレッスン・プログラムを昼食もとらずにこなしいた。その日の夜、マルティンは「ニッキー(私の外国での愛称)、国際技術選のエントリーフォームを持っているかい?」と突然言い出して、その場ですぐに書き込むと、いつものいたづらっぽい目をしてニコッと笑って私に手渡した。そのまた翌日、私はまだまだ講習が続くマルティンに別れを告げると、試験休みで一緒に来ていた娘と東京へ戻った。

私のカバンには彼から預かったエントリーフォームと3月下旬に変更しなくてはならない帰りの航空券が入っていた。マルティン・グガニックは、約1ヶ月以上、考えた結果、第一回国際スキー技術選手権大会への出場をついに決断したのだった。

96年3月16日、マルティン・グガニックは、ぺーター・プロディンガ−と野沢温泉の民宿白樺の食堂にいた。プロディンガ−は、長野県スキー連盟のアルペンコーチとして来日していたが、トレーニングや大会のちょうど合間だったので、野沢温泉に来ていて、国際技術選の第1日目を”観戦”していたのだ。

もちろん、その場に私は居合わせたわけではないが、その後、居酒屋みなとで、ぺーターは私にいつもの大きな声で一気にまくしたてた。
「ニッキ−、夕飯の後で、オレはマルティンに説教してやったんだ!”何だ、オマエの今日の滑りは!”ってネ。ハンス・エンがオレのチームに来てすぐのころや、テツヤが1本目、スーパーランをした後の2本目とまったく同じさ!いやそれよりももっとひどかった。もうガチガチさ。”明日はもっとリラックスして、オレが世界で一番うまいスキーヤーだって思ってスタートしろ”って言ってやった!!」。こう言うとぺータ−は、マルティンのこの日の滑りよりも、たしかにずっとリラックスして日本酒を一気に飲み干した。

ハンス・エン、マーク・ジラルデリ、岡部哲也を育てた、マルティンと同じオーストリア・ケルンテン州出身の名コーチは、同国、同郷で同じ宿にいた代表デモンストレーターの”意外な滑り”に思わず「コーチング」してしまったようだ。そして、アルペンとか基礎とかいう範囲を超えたぺーターの割箸を使っての”技術分析”がその後1時間ほど続いた。

翌日、大会2日目=最終日。マルティン・グガニックは悪天候のため、唯一行われた彼の得意とする”急斜面・不整地・ショート”で、最後にスーパーランを見せて、そして魅せてくれた。表彰式が終わり、少し小さめのカップを手にしたマルティンは、不安そうな顔で私に聞いた。「ニッキ−、こんな成績だったけど、来年もまた日本に呼んでくれるかな…」。私が「何言ってんだヨ。当たり前じゃないか」と言うと、いつものいたずらっぽい目ではない目をしてニコッて笑った。

96/97シーズン、マルティン・グガニックは”全日本スキー連盟教育本部強化委員会特別コーチ”という肩書を加えて、オーストリアと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に大好きな日本へ、またやってくるだろう。

田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主