| 知のフィールドワーク 13 (スキージャーナル1995.3月号) |
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| 7年半後のボジョレーの味 |
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| 1月28日土曜日、インタースキーが終わり、ホピヒラー教授と私は高輪プリンスホテルのステーキハウスにいた。 今からおよそ7年半前、つまり1987年の秋、時期インタースキの開催地がサンアントンに決定した。そのときやはりホピヒラー教授と私、そして当時ブンデススポーツハイム1年生であった志鷹慎吾の三人でオーストリア・インスブルッグにある”ドームシュトゥーベ”という店に行った。そのとき教授と私ふたりで赤ワインを1本開けてしまったのを覚えている。ワインを飲み終わる頃に教授は突然こう行ったのだ。 「サンアントンの次には日本でインタースキーが開催されるといいな。それもサンアントンの姉妹村で、私もよく知っている野沢温泉だったら最高だね!」 これが第15回インタースキー野沢温泉大会への第一歩だった。それから7年半の間、本当にいろいろなことがあった。 4年前に見事、野沢温泉村へのインタースキー招致に成功したものの、その後には組織作り、スポンサー、メディア、施設、通訳など様々な問題の壁が幾重にも立ちはだかった。私が考えていたインタースキーとは違う方向へと行きかけ、「やめたい」と思ったことすらあった。 そして開催日まであと数日という最後の最後に大きな問題が待っていた。阪神大震災だ。組織委員会では開催か否かが討議された。結局、開会式、歓迎パーティといった派手なプログラムを自粛する方向で、何とか開催されることとなったものの、今度は地震の影響を気遣い、「今回のインタースキー参加を再検討したい」と いう旨の連絡が海外から相次いで入ってきた。オーストリアチームのトレーニングのために1月17日(それはまさに地震が発生した当日)に来日したホピヒラー教授は1月19日に野沢温泉に移動し、すぐに各国理事や団長に電話をかけた。「野沢温泉は被災地から離れているのでまったく心配はない。準備万端だし、雪もたくさんあるので是非来てほしい!」と訴えたのだ。国内からの問い合わせが殺到し、インタースキー事務局の電話がパンク状態であったため、村長室の電話を使っての懸命な訴えであった。インタースキー会長直々のこの電話により、各国参加団は安心して日本へ向かうことになった。緊急時でのこのような素早い対応はホピヒラー教授が札幌オリンピック時に総監督としてカール・シュランツ問題に対処したころから身に付いていた世界のスキー界トップの人の持つ抜群の判断力と行動力だと言えよう。参加予定各国への電話が終わると教授は、「今月の村長室の国際通話料金はかなり高くなるだろうね。」と言って、ニコッと笑った。 そしてすべてが無事に終わった1月28日の夜、高輪のステーキハウスで赤ワインを飲みながらふたりで今回のインタースキーの1週間を振り返った。 「教授、僕は今回のインタースキーで4回ほど眼のあたりが熱くなっちゃいました。まず最初は開会式の直前。人は大勢いるのになぜかシーンとしてピリピリしていた。あの瞬間”いよいよ始まるんだな”という気がして・・・。その次が初めての試みでもあったアルペンショーの初日。賛否両論あったけれど、やってみたら大成功で、ゴールエリアでオーストリアのデモひとりひとりと握手した。彼らの満足した顔を見た時がジーンと来た2回目。そして盲人のデモンストレーションが無事に終わり、責任者のショパンニ・トリベーラのサングラスの奥がキラキラ光っているのを見たら熱くなっちゃって。彼とは、宿のこと、無線の無許可のこと、荷物のこと、バーンのこと、とにかくたくさんの問題につぃて電話とファックスとで何十回となくやり合ったけれど。」 「ニッキー(私の外国人の間での愛称)、無事と言えば、盲人のデモで一度、無線を使っての演技中、スキーヤーがひとりゴールエリアと観覧席の間の溝に落ちちゃってね。」と教授。 「僕も見ていて一瞬、ヒヤッとしました。デモンストレーション中、しかも視聴覚障害者のデモでけが人でもでたら大変ですからね。でもストックを降ってすぐに立ち上がったのを見てホッとしましたヨ。」 「その直後、野沢温泉スキークラブ担当者が指示をするとすぐにコース整備担当のクラブ員がゴールエリアの一番下に座って人間の”壁”を作った。」 「防護マットを用意するには間に合わないし、咄嗟の判断ですね。」「安全面を考えたすばらしい対応だね。さすが野沢温泉スキークラブだと思ったよ。そしてもしレースだったら、ぶつかられた壁の方がケガしてしまうけれど、盲人スキーヤーに対しては一番安全で暖かい”防護マット”だったね。」 「そして最後の4回目がIVS総会での教授の最後の挨拶でした。総会の出席者全員が立ち上がって拍手して・・・。これがインタースキー会長としての教授の最後の言葉だと思ったら熱くなっちゃって・・・。」「ニッキー、でもサムライは泣かないんだろう」 こう言うと教授は最後の赤ワインをおいしそうに飲み干してニコっと笑った。その笑顔は1月19日に野沢温泉の村長室で見たものと同じだった。 インスブルックで、南チロル産の赤ワインに始まった私のインタースキーは、7年半の歳月を経て東京で、ボジョレーの赤ワインで終わった。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |