知のフィールドワーク 29 (スキージャーナル1999.3月号)
'98スキーアテンドinジャパン
 オリンピック・イヤーだった1998年、日本にたくさんのスキー関係者がやってきた。そしてそのうちの何人かを成田空港に出迎え、同行し、いろいろな話を聞いた。1月――オリンピックの直前に白馬村で開催されたメダリスト"レースに出場するためフランツ"クランマーがやってきた。成田空港に着くなり「ダウンヒルのスタートは"上"からだヨネ。"上"からだったらとってもおもしろい、いいコースになると思うヨ。この目で見られるのがとっても楽しみだ!」と言って目を輝かせた。

 そしてご存知のとおり、何回かの延期の後、快晴の下、"上"からスタートした『本物のダウンヒル』でクランマー以来のオーストリアのヒーロー、ヘルマン・マイヤーが宙に舞った。舞うばかりか、ネットもマットも越えてブッ飛んだ。その後、スーパーGと大回転で2個の金メダルを取って本当に"ハーミネーター"であることを証明したヘルマンは世界のヒーローとなり、あまりアルペンのシーンを映してくれなかったテレビのオリンピック総集編でもかならずヘルマンのブッ飛びシーンが登場した。もし"下"からスタートしていればヘルマンが3個の金メダルを取ったかもしれないが、本物のダウンヒルのすごさを世界の人に見てもらうことはできなかっただろう。

 3月――SAJ公認スキー学校アニバーサリー大会にオーストリア・デモチームを率いてブンデススポーツハイム(当時)のヴェルナー・ヴェルンドル教授がやってきた。成田空港から東京駅へ。そして会場となった蔵王へ向かう新幹線の中でとつぜん、教授がこんなことを言い出した。「ニッキー(私の外国人の間での愛称)! もしかするとブンデススポーツハイムの組織が変わるかもしれないんだ。今まで以上にオーストリアスキー連盟との関わりが深くなってスキー教師の養成が中心だった体制からスキー指導全般に対応できるような形態になることが検討されているんだ……」。この段階では教授の構想であり、思惑でもあったため、あまりはっきりしたことは言えなかったようだが、突然、彼にとって外国人である私にこんな話をされてびっくりした。しかし、この突然の一言が今シーズンまでに現実となり、あのスキーの総本山と言われた『ブンデススポーツハイム』が『ブンデススポーツアカデミー』と名称変更をして新たなトレンドセッターとして生まれ変わる。

 8月――全日本スキー連盟と長野県スキー連盟の招聘でハインリッヒ(ハイニ)・ベルクミューラーがやってきた。元陸上十種競技の選手だったハイニは、久々の日本の暑さに参っている様子で成田空港到着ロビーに現われた。今回は長男のハイノを連れてきた。「ニッキー、ハイノは海外はもちろん飛行機に乗るのも初めてなんだ。それにしてもハイニとハイノって紛らわしい親子だろ!」と言ってにっこり笑った。しかし、プライベートな話はここまで。「ニッキー、それよりキミ(木村公宣)の回復力はすごいよ。もうリハビリの段階はほとんど終わって、これからは本格的なトレーニングをしても大丈夫。スキーに乗ってもまったくモンダイない。あとはケガの恐怖に対する精神面かな……。それから、具体的には彼の脚は△○@×……」と2、3分話しっぱなし。以前からあまりわかってもいないのに、ハイニの語るむずかしい医学用語に適当に相槌をうっていたため、ハイニはさらに難解な医学用語をちりばめて木村選手の身体のすべてについて話していたが、その内容は前記のようにほとんどわからなかった。このキムラ・キミノブの大腿のCTスキャンを鞄に入れて持ち歩くヘルマン・マイヤーの強靭な肉体を創った大男が、オリンピック後も日本選手のフィジカル面をもっともっと強化していってくれるのが楽しみだ。

 12月――朝の8時の自宅のケイタイが突然鳴った。「ニッキー、成田に着いたよ。予定どおりひとりで品川まで行くからホームで会おう。もう成田エクスプレスの券は買ったヨ」。早いもので今回で10年目の来日になるマルティン・グガニックは10時間以上のフライトの疲れも見せない相変わらずの元気な声だった。先シーズンまでは成田に迎えに行っていたが、数日前"グッギー"から電話で「大丈夫だよ。朝早いし、ひとりで東京まで行けるヨ」と言われていた。世界で一番遠い国際空港に朝早く出迎えに出るのはたしかにつらいのでほっとしたが、なぜか自分の息子がひとり立ちしていくのを感じた父親の心境のようでちょっぴり淋しかった。

 会社に寄ったので到着ぎりぎりになり、「もし先に着いてたら不安になるだろーな」と思ってあわてて品川駅のホームの階段を駆け降りると、ちょうど列車が入ってくるところだった。ほとんど降りてこなかった乗客の中にグッギーがいた。真冬だというのに、薄手のトレーナーだけでD社のよれよれのスポーツバッグを重そうに抱えていた。相変わらずの笑顔で「セアヴス(オーストリアでハローのような意味)、ニッキー」と言って手を差し出すと「雪はもうたくさんあるらしいネ。よかった。去年はシーズン初めの雪不足で新品の板を傷つけちゃったからネ」と目を輝かせて言った。そして彼がこれから約3カ月間で行く予定になっているスキー場(黒姫、尾瀬岩鞍、車山高原、ウイングヒルズ、鯵ヶ沢、森吉、千畑、雫石、白馬、岩岳、草津、中里、野沢温泉……)の正確な積雪情報を伝えた。いよいよマルティン・グガニックの長い滞在がまた始まる。10年間で日本語はかなりうまくなり、日本中(雪があるところに限る)どこでも行けるようになったグッギー。前回、私の会社のある『田町』からひとりでD社のある『目白』まで山手線で行くと言って、私の自宅のある『目黒』で降りてしまい、とても困ったグッギーだが、今回は無事に日本での最初の昼食を目白のD社の社食堂でSデモやD社の人たちと食べていた。

 ただし今回は心配だったので私も同行したのだった……。

田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主