| 知のフィールドワーク 10 (スキージャーナル1994.5月号) |
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| 3・4月に出会った人たちのテーマ「大丈夫」 |
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| リレハンメル・オリンピックも終わり、技術選・デモ選も終わった。 3月22日 成田空港でP.Pを迎えた。オカベのコーチとして元ナショナルチームのコーチをしていた彼は、毎年この時期来日する。到着ロビーで私を見つけると、最初の一言が「やあ、ニッキー(私の外国人からの愛称)!元気か?ところでどこかでビール買えないかな?!」。残念ながら朝8時過ぎのの成田空港でビールを見つけるのは、かなりむずかしかった。しかし、相変わらずの彼らしい「来日第一声」であった。 その日の夕方、彼は北海道へ行くので、とりあえず私の事務所に行った。応接室で話をしていると、岩手でレーシングキャンプをやっているはずのB.Kから突然電話がきた。ワールドカップレーサー時代はスラロームでステンマルクの最大のライバルだった彼も、その後の日本での活動でもうすっかり「スキー界の有名人」のひとりである。「ニッキー、元気かい?ボクは元気だけど大丈夫。でも重傷なんだ!」と、ワケのわからないことを言う。例のトーンの高いスロヴェイニアなまりのドイツ語がさらに興奮して「アルシンド状態」であった。なんと、滑走中にコブ斜面に突っ込んでいって、鎖骨や肋骨を折ったと言う。「大丈夫、大丈夫。明日帰国するけど大丈夫・・・」とあまり大丈夫そうでない声を出していた。電話を切った後、Pに「B.Kが大ケガらしんだ。これから後3週間、日本でコーチングするんだから、オマエも気をつけてくれヨ!」と言うと、P.Pは短くなったタバコを灰皿で消しながら「ニッキー、大丈夫だよ。オレはB.Kと違ってデラパージュしかやらないから・・・」と本当に大丈夫そうな太い声で言った。 3月27日 A航空の機内用VTRの撮影でオーストリアのキッツシュタインホルン・スキー場にいた。この日は前日降った雪が硬いバーンの上に15センチほど積もって、なかなかのコンディション。しかし、温度の変化が激しかったのかガスが出たり太陽が顔を出したりの変な天気だった。撮影初日だったが、晴れ間を見ながらせっかくの新雪なのでコース横の急斜面でとりあえず撮影のスタンバイをした。モデルは近くのザールバッハ出身で、ワールドカップでも活躍したH.E。しばらくの天気待ちの後、スタート!!華麗な新雪でのショートターンを期待した私たちは「2ターン目からの「異常」に気がついた。まるでサーフィンをしているように、彼の下にあった雪に横一直線にスジが入ったかと思うと、下でVTRカメラを構えていた私たちに向かってきた。そしてあっという間に私たち、カメラ、立ててあったスキーは雪の下。急に目の前が真っ黒、いや真っ白になったと思うと、雪の中に寝ていたのだった。そう、そうなのです。ナダレ、いわゆる表層雪崩というヤツでした。人間は皆、無事。カメラもどうにか無事そう。しかし立ててあったスキーは全て雪の中に遭難。「大丈夫か!」と叫んでとんできたH.Eは、私たちの無事を確認すると、「大変だ!スキーがみんな雪の中だ!早く助けないと窒息しちゃうよ!」と冗談を言ったかと思うと、自分のスキーを脱いで片方のスキーのテールで雪を切り込むような感じでスキーの捜索を始めた。そして私たちも同じようにして手伝ったが、結局スキーを全て見つけだしたのはH.Eだった。 「コツがあるんだよ、コツが。ボクはブンデススポーツハイムでの国家検定のコースの時、教わったのさ」と言って笑った。 ホテルに帰って夜、そのVTRを再生して見ると「からくりTV」に売り込んでもいいくらい克明にその決定的瞬間が映し出された。ナダレもすごかったが、日本人と比べても小柄な体格のH.Eの運動神経のカタマリのような「サーフィンスキー」はなかなかのものであった。 4月6日 朝里スキー場で行われていた全日本スキー連盟の公認スキー学校大会(アニバーサリー)が無事終了した。今回はオーストリアの若手デモ4名と、ご存知インタースキー会長でもあるF.H教授が、オーストリア代表として参加し、講習、講演、デモンストレーションを行った。ハードなスケジュールではあったが、毎晩日程終了後、今年の技術選で優勝してちょうど朝里に来ていたフランスのM.Gオジサン、日本からはもう本誌でおなじみの「ベストスキー」のH.H氏などが加わって、缶ビールをたくさん買い込んで、独、仏、日本語入り乱れての「スキー雑談会」が教授の部屋で「開催」された。そして、その日、チェックアウトのため昼ごろ部屋に戻ろうとすると、教授に「ちょっと部屋に来てくれ!」と言われたので彼の810号室に行った。教授は前日の「ビールパーティ」で残った最後の1本の缶ビールをふたつのグラスに注いでから、熊のような手でそのうちのひとつを持ち、日本語で「カンパイ!」と言った。そしてもうひとつのグラスを私に渡しながら、「ニッキー!!日本でもヨーロッパでも今年はマイナス10%とか20%とかスキー業界の悪い話しか聞かないけど、大丈夫だよ。日本にもオーストリアにも、そしてフランスにも、スキーに一生懸命な人たちがいる限りね!大丈夫、スキーのすばらしさは不景気くらいじゃ吹き飛んだりしない!」といつもの低くておだやかな声で言った。「教授、そのためにも来年のノザワのインタースキーは大切ですね」と言うと、彼はニコッと笑って残っていたビールをおいしそうに飲み干した。 1ヶ月でいろいろな人と会って、いろいろなことがあって「大丈夫」というキーワードでシーズンが終わっていった。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |