知のフィールドワーク 7 (スキージャーナル1993.9月号)
インタースキー村長の死
1991年1月18日午後4時30分、オーストリア・サンアントン村では、第14回インタースキーが開催され、村内の「アールベルグザール」という各国の講演が行われた会場では、時期インタースキー開催地を決めるのに投票が行われていた。

各国の票が集まると、選挙管理委員会の学校体育部会会長ヘルマン・アンドレッチ博士が低い声で票を読み上げた。途中、「シュヴェーデン」(スヴェーデン)、「アルゲンティーニェン」(アルゼンチン)、という票がいくつか続きドキドキさせられたが、最後は「ヤーパン」「ヤーパン」という声が連続して会場に流れ、日本の野沢温泉村が第15回インタースキー開催地として決定した。

その瞬間、1回目の投票で過半数をとり圧勝した「ノザワの強さ」に会場からどよめきが起こり、前の方に陣取っていたジャパンの代表団の人たち、最後部にいた野沢温泉村の招致団の人たちは立ち上がりバンザイをし、それぞれが握手を交わした。
招致団の輪の中心には野沢温泉村の村長さんがいたが、周りの人たちと握手しながら少し離れたところにいた私と目が合うと、ニッコリした。

いつもニコニコうれしそうな村長さんのこのときの笑顔はまた格別で、今でも忘れることができない。招致のときから村長自らサンアントンで毎日4〜5カ国の代表団団長と面会し、「野沢温泉の素晴らしさ」を説明した。おそらく言葉は通じなくても、村長の人柄、熱心さを感じ取って、「日本」に票を投じてくれた国がたくさんあったに違いない。


そして2年半。長野オリンピックも決定し、盛岡・雫石ではアルペンスキー世界選手権が開催され、残念ながら天候には恵まれなかったが、その運営の素晴らしさは世界のスキー界に高く評価された。一方、インタースキー決定後野沢温泉村では、村長を先頭にして少しづつではあるが着実に開催の準備が進められた。村へのアプローチの道路が良くなり、今年11月には「アリーナ」と呼ばれる室内プールつきの大会議場がオープンする。

また、メインゲレンデとなる日影ゲレンデもデモバーンとして理想的なバーンに改修中、ゲレンデ下はスペースが広くなり、インフォメーションセンターやレストラン棟が建てられる。村内から日影ゲレンデまでのアプローチも現在進行中。

こういった「ハード」に加えて、インタースキーまでに改装する宿に対しては、村から利子補給がなされ、外国人の宿泊が予定されている宿の人たちは村の援助を受けて、3回に渡る前開催地サンアントンへの研修旅行を行った。そしてインタースキーの宿舎としての必要な事項を「先輩」のサンアントンから学んできている。

こうした準備が進む中で、インタースキー開催まで500余日を残した8月13日早朝、前日野沢温泉村のインタースキー事務局で終日打ち合わせをして帰ってきた東京の私の自宅に電話があった。
「田さん・・・。今日の朝、村長が亡くなりました・・・」昨年、胆嚢の手術をされたが、その後順調で、今年は「インタースキーの本番で身体をこわしたら大変だから・・・」とおっしゃって自らチェックのため入院されたと聞いていたので、この突然の訃報にただ茫然としてしまった。

野沢温泉村を支えている「スキー」にとても理解を示し、インタースキー開催に情熱を燃やしていた村長がいなくなってしまったのだ・・・

来年3月、野沢温泉で開催されるデモンストレーター選考会で選ばれる日本のナショナルデモンストレーターが、翌1995年の第15回インタースキー野沢温泉大会で素晴らしい演技を見せ、インタースキーを大成功させることが、志し半ばで亡くなられた「インタースキー村長」に対する私たちに課せられた指名である。

野沢温泉村 富井一二村長の御冥福を祈る。


田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主