| 知のフィールドワーク 4 (スキージャーナル1993.3月号) |
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| ステンマルクとの再会 |
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| 1月10日、スイス航空169便はどんより曇った成田空港を飛び立ち、チューリッッヒヘ向かった。翌日10時45分、チューリッッヒ空港でインゲマル・ステンマルクと待ち合わせ、今回の撮影地であるサンモリッツへ向かう。 私が初めてステンマルクの名前を聞いたのは、1973年のことだから、今からもう20年も昔のことになる。当時の私はオーストリアのザルツブルグに留学しており、その頃つき合っていたオーストリア人の女性の部屋にいるとき、古ぼけたラジオから、ステンマルクの名前が流れてきたのだ。それはワールドカップも終盤戦に入ったその年の北欧シリーズで「スウェーデンからとんでもなく強い新人レーサーが出現した!」というワールドカップ実況放送だった。そのとき私は、彼の名前とスウェーデンという国のイメージから、なぜか金髪の、がっしりした大男の姿を想像していた。 実際のステンマルクと初めて会ったのはそれから数年後、スイスのクラン・モンタナだった。私はその年からMカメラマンの運転手兼通訳としてワールドカップをまわることになり、ワールドカップ前哨戦のワールシリーズの取材に来ていた。ホテルのバーで「オイ!この宿にステンマルクも泊まってるらしいぜ!」とMカメラマンが言うと、いきなりスッと本物のステンマルクが立っていた。そのときは既に”王者ステンマルク”だった。突然、Mカメラマンに「ニコンのカメラとキャノンのカメラとでは、どっちがいいのか?」という、鋭いが、答えるのがなかなか難しい質問をしてきた。その後、「その後、僕の名前日本語で書いてみてくれ!」と言うので私のキタナイ字で書いてやると、そのキタナイ字とまったく同じにトレースした。まるでそれは彼のレースでのライン取りのように正確せ狂いがなかった。そしてそのとき、マスコミ嫌いって言われているけど、以外とイイやつだなーなんて思ったりした。 そして時は流れ、昨年、スキージャーナルの撮影の仕事でやはり今年と同じスイスのサンモリッツでステンマルクと再会した。ロケハンで前泊した翌日、ホテルで朝食をとっているとわれわれの席の後ろにまた、スーッと音もなくステンマルクが立っていた。撮影は毎日快晴。彼の滑りは、相変わらず滑らかで美しかった。でも、それ以上に感激したのは撮影後のことだった。通常撮影のモデルとなるトップスキーヤーは、その日の撮影が終わると猛スピードでサーッと下まで降りてしまうものだが、ステンマルクは違っていた。まるで仕事の余韻を楽しむように100〜200メートルくらい、滑っては止まり、だんだん暮れていくまわりの山をじっと見てはまた滑り出す。この滑りが撮影のときの滑りに増してすばらしい。下山する一般スキーヤーの合間を流れるように滑り降りていく。「この滑りが”ライブ”で見られる私はなんて幸せなんだろう」なんて思ってしまうのだった。 そしてインタビューでは相変わらず口が重く、言葉をひと言ひと言選びながら答える。ちょっとっ答えにくい質問をすると、30秒くらい考え込んで沈黙。こちらは「今、頭の中で整理してきっとすばらしい答えは返ってくるに違いない」と期待している。30秒後、ひと言「やっぱりわからない・・・。」 仕事も終わり、モナコの自宅へ帰る朝、愛車サーブにスキーをステンマルク自ら積み込む。もう石で傷ついたガタガタになったスキーを本当に大事そうに、彼の一番の宝物のように、ソッと座席のシートの上に置いた。 今はもう亡くなってしまったが、ワールドカップレポーターとしてスキージャーナル誌上で活躍されたいたスイス在住吉富法男氏が、当時のレポートの中で、ステンマルクのことを「北欧の一匹狼」とか「弧高の存在」という表現で描写されていた。ステンマルクは、その行動、言動を身近で観察していると、まさに「北欧のさわやかでひんやりした透明な風」みたいな感じがする。きっとこれからもチューリッヒ空港の到着ロビーで久しぶりの再会をするときは、スーッと私たちの横に現れ、そして物静かに「ハロー」って微笑みそうな”予感”がする。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |