知のフィールドワーク 3 (スキージャーナル1993.2月号)
アニタのマッサージ
その年は3月末なのに、上野公園の桜はほぼ満開だった。全日本選手権とFIS公認ラークインターナションナルのダウンヒル、スーパGに出場するため、アニタ・ヴァハターは日本にやって来た。ご存じの通り彼女はアルベールヴィルオリンピック女子大回転とコンビネーション2種目の銀メダリストである。

志賀高原へ向かう朝、上野駅で予定の列車の時刻まで、上野公園でつかの間の桜見物を楽しんだ。彼女は初めて見る満開の桜に感激していたが、花見の席取りをしている一般ジャパニーズの「生態」にも驚かされていたようだった。出発時刻20分前に一時預け所からDHスキー2本、スーパーGの2本入り極太スキーケースを出すと当然のようにアニタはそのケースを一人で背負って歩いていった。一般の日本人女性とほとんど同じ体格のアニタが、世界のトップダウンヒラーとして当然持っていなくてはならない体力、筋力を持っていることを突然目のあたりにした私は、スキーケースの端っこあたりを一緒に持っているよな振りをして、最小限必要とされる日本男児としての面目を保つのが精一杯だった。

春の日差しが差し込む特急「あさま」の車内で、アニタはほとんど眠り続けた。長野駅に着く少し前に仕方なしに起こしたが、日本へのフライトの時差ボケという「カウンターパンチ」にワールドカップの転戦疲れという「ボディーブロー」がかなりきいている様子だった。

志賀高原に着いた翌日、トレーニングランを終えた彼女はホテルに戻ると(これは私の外国人用の愛称である)飛行機で寝違えたみたいで背中から腰にかけてとっても痛いの」と私に訴えた。「そうか。でもワールドカップの時みたいにチーム専用のマッサージのおばさんもいないからな。もしよかったら晩めしのあとでマッサージしてあげようか。日本式の指圧ってやつのマネゴトみたいのしかできないけれど少しは効くかもしれないよ。」と私が言うと、「じゃあ、お願い!」と「滞日専用マッサージ師」を依頼されたのだった。しかし残念なことに、夕食後、志賀高原の友人に連れられて湯田中まで飲みに行ってしまった私は、その晩アニタとの約束を果たせずに終わってしまったのだった。

いよいよレース1日目。種目はダウンヒル。天気は快晴。スタートへ向かうゴンドラの中のアニタは一晩眠って疲れもとれたようで、オーストリア女子チームの仲間たちのことや、自分の家のことを楽しそうにしゃべり続けた。私がペーター・プロティンガーから教わったジョークを話すと思いきり笑い転げてゴンドラが揺れた。スタートに着いてダウンヒルスーツ姿になるまでは陽気で明るいアニタだった。しかし、前走がスタートするあたりから突然彼女の表情が変わった。目を閉じてしゃがみ込むとコンセントレーションに務め、自分だけの世界に入っていった。顔が青ざめて口唇が紫色になっていった。何も知らない人が見たら、ほかのスタート前でもリラックスしている日本人選手の中に一人ダウンヒル初挑戦の「外人」選手がいるように見えたかもしれない。
しかし、私を含めてワールドカップのビッグレースやオリンピック、世界選手権スタート前のワールドカップ・レーサーのさまざまな精神統一、神経集中を見ている者にとっては別に当然の行為のように見えた。そのときのアニタにはおそらく、その場にいる人間の中で唯一親しい私にさえも声をかけられないようなピリピリした雰囲気があった。これも前述のビックレースのスタート前ならやはり当然なのである。しかし私が驚いたのはそんなことではないのだ。他の日本人選手がスタート目前にして春の陽気の中でのシーズン最後のレースを、よく言えば楽しんでいる、悪く言えば集中力に欠けているのに対し、アニタは彼女がいつも経験しているより何十倍もやさしいコースで、こう書くと失礼だが、彼女よりもずっとランキングが下のレーサーを相手になぜこんなに信じられないほど「マジ」になっていたのかということなのである。後で「どうして?」と聞いたらきっと「私はどんなレースにも手を抜くことはしないの」という答えしか返ってこないと思うので何も聞かなかったが、未だにこの時期のアニタの行為そのものでなく、その「状況下」での行動理由が理解できないのである。

数秒続いたアニタ流精神統一の後、彼女は無言で脱いだピステ上下を私に渡してスタートゲートへ向かった。そこにはさっきまでのオーストリアン・ガールとは別人のトップアスリートとしてのアニタがいた。5番スタートでバーを切ったアニタは、スタート直後の急斜面のS字を、それまでの選手とはまったく違ったダイレクトなコース取りをしてあっという間に視野から消えていった。スタート周辺にいたコーチや旗門員から「ウォー」という喚声があがった。その後スタートした何人かの選手がアニタと同じコース取りに挑戦して次々に下の防護ネットに吹き飛ばされていった。スタートにはコーチからのトランシーバーで「バカヤロー、何考えてるんだよ!自分のコース取りをしろ!」という指示が入った。

アニタのウェアを持ってゴンドラでゴールへ降りるとコバルトブルーのレイトンハウスのヘルメットを抱えて、コーラを飲んでいるアニタがいた。また、すっかり普通の女の子に戻って「あんまりいい滑りできなかったけどレースやったら背中も腰も痛くなくなっちゃった」といってニコッと笑った。その日の結果は2位の日本人選手を3〜4秒離してダントツの1位だった。その日、私はトップレーサーのタイムという成績だけではなく、内に秘めたスゴさを身近に体験させてもらったのかもしれない。そして「痛いところもなくなったから明日からもっといい滑りができるかな」と思いながら、「でも、きのうの晩、やっぱりマッサージしてあげればよかったナ」なんて後悔してしまうのである。


田和夫
1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主