| 知のフィールドワーク 2 (スキージャーナル1992.12月号) |
|
|
| ホピヒラー教授の夢 |
|
|
| 1998年10月、私はオーストリアにインスブルックにいた。2年に1回開催される索道見本市「インターアルピン’88」に研修視察で訪れた日本のスキー場関係者を連れて出席するためだ。そして同時期にオーストリア国家検定養成コースの理論講習が開催され、もちろん最高責任者であるフランツ・ホピヒラー教授もインスブルックに来ていた。 夕方6時頃、ホテルセントラルの私の部屋の電話が鳴った。「デンか?(外国で私を”姓”で呼ぶのは教授くらいだ。どうやら最初、外国人のドンとかダンとかいうのと同じくデンというのも”ファーストネーム”だと思っていたらしい。)ホピヒラーだけど下のフロントで待っているよ。私の友達と一緒だ。」 「同じインスブルックにいるなら夕食でも一緒に」という話は数日前に教授と電話で話していたが、まだかホテルまで来てもらえるとは思っていなかった私は、あわてて着替えて下に降りた。そこには相変わらずの熊のように大きな身体をしたホピヒラー教授と志鷹慎吾が、私を待っていた。「教授が言った”トモダチ”というのはシンゴだったのか」そう思っていると、教授は「デン、久しぶりだな。こいつはブンデススポーツハイムで一番出来の悪いデモだけど、日本に行かせたらマネージメントしてくれるかい?」と言ってシンゴを紹介した。相変わらずの教授らしいジョークだ。 10分後に3人は旧市街の黄金小屋根の横を入った所にあるドームシテューべという、小さいが拡張のあるレストランにいた。料理もワインももちろん全て教授におまかせ。教授が北イタリアの赤ワインを頼むと、シンゴがウェイターに「ミネラルヴァッサービッテ(ミネラルウォーターください)」と付け加えた。それを聞いた教授がシンゴに聞こえるように「シンゴは今夜雇った私の運転手だからナ。それに知っているか?ブンデススポーツハイムの優秀な教官たちは酒を一滴も飲まないんだ。1年に数日はネ!」と私にささやいた」 こうして教授は彼独特のジョークを交えながら、ブンデスの彼の”子供たち”のことやオーストリアのスキー事情についてほとんど一人でしゃべりまくり、シンゴと私は聞き役になった。ワインの方は、シンゴは最初の乾杯以降は”コースアウト”してしまったので、教授と私の一騎打ち”デュアルレース”となった。 ワインが1本空いたくらいのところで、教授はこんな話を始めた。 「デン、次のインタースキーがサンアントンなのは知っているよな。だけどまだあまり準備が進んでいない。オーストリア人のスローペースは相変わらずだからね。でもきっといいインタースキーができると思っている。ところでその次なんだが・・・・。ノザワオンセンはどうかな・・・。」 教授のあまりにも突然な言葉に私は何も答えることができず、ただ典型的な日本人風に微笑みながらうなづくだけだった。 「オレはノザワがいいと思うんだ。サンアントンもそうだけどあそこには歴史も伝統もある。それに年寄りや子供や犬がいる。どういうことかわかるかい。ノザワには人間らしさ、人間のあたたかさがあるんだ。競技スキーの大きな大会には選手たちにベストコンディションを与えられるような近代的合理的な施設が必要だ。でも世界のスキー教師たちがあつまるインタースキーの開催地には、それよりも、その国の文化や人間に直接触れられるような所がふさわしいと思うんだ。ノザワには何回か行ったけど、それがあるとオレは思うんだがどうだろう・・・。」 断っておくが、最初に書いたように、これは前回の第14回インタースキーサンアントン大会のさらに2年前、今からちょうど4年前の話なのだ。当時、スキー関係者から野沢温泉村の村民まで、誰一人”サンアントンの次の大会を野沢温泉で”とは考えていなかったはずだ。だから私と志鷹慎吾は、世界中でただ野沢開催を考えてたインタースキーの最高責任者ホピヒラー教授の、あくまで個人的意見を誰よりも早く聞いてしまったことになる。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |