| 知のフィールドワーク 1 (スキージャーナル1992.11月号) |
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| 24時間、コーチはコーチ |
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| 今年の4月、いつものようにペーター・プロディンガーはチロリア・アルペンセミナーのため日本に来ていた。そしていつものように私とふたりで野沢温泉のハウス・サンアントンの食堂奥のカウンターで赤ワインを飲んでいた。いつもとちょっと違ったのは、彼がこの春で全日本ナショナルチームのコーチをやめることが決まったことくらいだった。 夜中2時頃、私たちふたりは日本のコーチたちの話をしていた。ペーターが「なあ、ニッキー(これは私の外国人用の愛称)、コーチのKとトレーナーのJのコンビってどう思う?」と言い出した。 「どっちもかなり一途なところあるじゃない。」と私が言うと、ペーターは「うん、そうなんだ。あれは確か3〜4年前のシーズンイン直後のシュラッドミング(オーストリア)だったと思う。KとJとオレが(岡部)テツヤの「プライベートチーム」を任されていた時のことだ。あの時も夜中の2時すぎだった。KとJとオレと、あと何人かのオーストリアの知り合いと一緒に宿のバーでがんがん飲んでいたんだ。もちろんテツヤはとっくに寝ていたさ。フッと窓の外を見ると、圧雪車がバーンを完璧に整地して降りてきたところだった。次の日のレースを想定したトレーニングをやろうと思って、オレが頼んでおいたんだ。それを見てオレは思った。「これだけ冷えた夜なら、今すぐ水を撒けば最高のアイスバーンができるゾ!」ッテね。10分後、オレたち3人はジャパンのユニフォームを着て白い息を吐きながら宿の前のスラロームバーンに向かっていた。メチャクチャぶっといホースを持ってね。地元の消防団で見つけだしたんだ。そんな時間に水を撒くホースを手に入れるなんて神業だったよ。で、Jとオレはそのホースを抱えて息を切らせながらバーンの中腹にあたりまで登った。ホースの先の金属のところがやたら重くて冷たかった。空には星がたくさん見えて月明かりが冴え渡って、とにかく頬が凍りつきそうなくらい寒かった。ふたりで太いホースの先をしっかり抱きかかえて腰を据え、下の水撒きの元栓のところで待っていたKに向かって大声で叫んだ。「K、いいぞ!バルブをまわしてくれ!」「OK、ペーター!」Kのやつはそう言うとバルブを思いっきり全開にしやがったんだ。さっきニッキーはふたりとも一途だって言っただろ。まったくめいっぱいその通りだ。あんなに太いホースなのに、バルブをいきなり全開だからね。ホースはみるみるうちに大蛇みたいに膨れあがってあばれだした。「K!止めろ!」そう叫んだときにはもう遅かった。オレは何とかホースにしがみついていたけど、Jは一瞬宙を舞ったかと思うと本当に生き物みたいになっちゃったホースの水をタップリかぶりながら、スラロームバーンを一気に下まで転がり落ちていった。やっと水を止めさせて「J、だいじょーぶかー!」と言って下まで降りていったら、Jはズブ濡れ、ベタッとつぶれたカエルみたいなかっこうで「ペーター、OKOK」って放心状態でつぶやいていたんだ。」 ここまで一気に話すと、ペーターはグラスに残っていた赤ワインも一気に飲み干し、そしてそのときのJの様子を思い出して腹を抱えて大声で笑い続けた。私も一緒になって笑ったのだが、内心は複雑だった。ぺーターにとっては当然のいくつかのことだが私にとっては信じられないすごい話だったからだ。 選手にベストの環境を与えるためにはコーチはどんな犠牲も惜しまない、そういうコーチはたくさんいると思うが、本当に当たり前のこととしてそれができるコーチはどれだけいるだろうか。 「ペーター、コーチってすごいね。そんな時間にそんなことまでやるんだ・・・。」私がそう言うと、ペーターはいつもように短くなったたばこの煙に目を細めながら、例の太い声で「24時間、コーチはコーチさ」そう答えた。そのとき、日焼けと酒焼けしたその横顔が心なしか少し寂しそうに見えたのだった。 |
| 田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |